今日は、何冊、本を持って行きましょうか。
一度何かを始めると止まらないタイプの貴方の事だから、少しぐらい多い方が良いのでしょう。
先日、貸した本は面白かったでしょうか。
どんな目をして、感想を述べて下さるのでしょうか。
はやる気持ちを抑えて、自宅を出る。


小説が10冊ほど入った紙袋を手に、少しの間電車に揺られる。
此の景色も、少しばかり勝手の違う電車も、既に日常と言える物へと変化していて。
改札をくぐり、けやき並木を歩き、白い息の行方を追う。
貴方の"住む"建物に入ると、建物の中の暖かさか、眼鏡が少し曇る。

階段を登る、一階、二階、三階、四階、五階。
長い廊下の突き当たり一つ手前、入り口に書かれる、愛しい名前。
ドアに置かれた消毒液を手にこすりつける、つん、とアルコールの匂いが鼻につく。

「失礼します。」

入り口には、すっかり顔なじみとなった、同室のご夫人。
一礼をし挨拶を交わす。

ちゃんなら、多分、まだ…。」
「然様ですか。ありがとうございます、其処に顔を出してみます。」

紙袋と鞄をのベッドサイドに置き、その上に、コートとマフラーを重ねる。
ベッドサイドのテーブルの上には、えんじ色の眼鏡と、私の貸した小説の山、そして手作りの栞。
やはり、読破されていたようですね。
多めに持ってきたのは正解だったようです。



階段を降りる、四階、三階。此処で、彼女は…。
階段横の大きな扉は、誰でも出入り出来るよう開け放たれている。
私は念のため、今一度手に消毒液を擦り込む。

また、つん、とした消毒液の香り、未だ冷たい私の指先。





「あああっ…!!」





夜の声にも似た、艶めいた声が、開け放たれた扉の奥から響く、ああ、私の愛しい、の声。





「嫌あああっ…!!…嫌あっ!!!」





一層大きな、艶めいた、私だけが聴けるはずの声。
愛しいはずなのに、今は、この声が、私の胸を締め付け、と顔を合わせた時の、言葉すら選ばせる。
此処に通う事は慣れたはずなのに、私は、にかける言葉選びだけは、未だに、慣れない。
間違った言葉を選ぶのではないだろうか。
貴方にとって苦しみとも取れる言葉をかけてしまわないだろうか。

消毒液の香りと共に立ち尽くす私に、受付役の女性が声をかける。



ちゃん、奥で頑張ってますよ。傍に行ってあげて下さい。」



女性に一礼をすると、私は奥へと足を進める。
其の足取りが軽いかと言えば、最大限にポジティブに見ても、違うだろう。

今朝は、あんなにも貴方に会いたかったのに。
此の扉をくぐってしまうと、貴方と顔を合わせる事を躊躇してしまう。

テーブルにも似た、とても大きく、そして低く平たい、若草色のベッドの上、と、水色の服を纏った女性と男性が一人ずつ。
その横には、私が贈った淡い橙の膝掛けと、車椅子。





「あああ…!!」





また、涙色の混じった声が部屋に響く。
私はその手前3mで立ち尽くす、そう、此の部屋のと私の間には、見えない扉があるように。





ちゃん、大丈夫!もう少しだよ!」





女性が明るい声で励ますと、は苦しそうな顔で、うんうん、と頷いた。
また部屋中に響く、の、艶めいた涙声。
私の頬に、雫が、一粒、二粒、軌跡を残しては消える。
ポケットから出したハンカチで雫を拭うと、女性と目が合った。
女性は少し申し訳無さそうに微笑み、軽く会釈をした。
うつ伏せにされているは、未だ私に気付かない。

私は女性に一礼をすると、その場を去って、一階のロビーへの階段を駆け下りた。
そして其の儘トイレの一番奥へ駆け込むと、我慢していた嗚咽を吐き出した。
蘇る記憶、たった、一ヶ月前の出来事、の紡ぐ、悲しい言葉。





「比呂士、泣かないで。」
「命があるだけ、私は、運が良かったんだよ。」
「大した顔じゃないけどさ、ほら、顔は、傷一つ、無いでしょう?」
「心配、かけちゃって、ごめんね…。」



の大きな瞳から流れ続ける、大粒の涙、裏腹に紡ぐ、前向きな言葉。
私は、口が無い人のように、只泣きながら、の手を握りしめていた。



あの日のは、救急車で運ばれてすぐに、頭を切開して、手術をして。
おかしな方向に曲がっていた右足は、足に向かって垂直に差し込まれたワイヤーに引っ張られて居て。
左足に至っては、所々茶色く変色した包帯に包まれていて、どの様な怪我をしたのかすらわからずに。
まるでドラマのように、口元には酸素を送る装置がついていて、隣りには心拍数を知らせる装置が在って。
手術の為に、サラサラの長い髪は刈り取られ、尼の様になっていて。



耳の中で蘇る、の艶めいた、戦いの声。
毎回毎回、彼女のリハビリを直視出来ず、こうやって逃げている訳にはいかない。
医学を志している者が、立ち止まる訳にはいかない。しかし、簡単に心がついていかない。



の足は、抗いようの無い現実を突きつける。
リハビリ室の見えない扉は、と私の心の距離を広げるようで。
だから…。



ただ扉が開くのをずっと待っている

(違う)

(私が扉を開けないと)
(一生開かない事を)

(本当は知っている)



special thx to
企画/いたずら小僧の葬送 様
and you.